損なわれた自我と共に生きる(村上春樹の閉じられたサーキットと井戸掘りのこと)

 

 昔、雑誌のインタビューで村上春樹が「どんな環境(親)だろうと我々は自我*1を損なわれる」と書いており印象的だったのを覚えています。その後にはこういうフレーズが続いていました。

 

「人というのは誰であろうとどんな環境であろうと、成長の過程においてそれぞれ自我を傷つけられ、損なわれていくものなんです。ただそのことに気がつかないだけで」
「(親は)生きていくためのノウハウを子どもに引き渡す」しかし「ノウハウを引き渡すということは、ある意味でサーキットを閉鎖していく」

 

 確かにこれは真実だと思います。

 

 わたしたちは多くの場合、親に育てられますが、その親も絶対的な他者、つまり自分とは異なる存在なわけです。大きな影響を受けざるをえない親というものが絶対的な他者であるゆえ、たとえ親にそういう意図がなかったとしても、わたしたちは育てられる過程のなかで、様々なすれ違いを体験し、微細な、ときに大きなな傷や痛みを受け、いくつかの可能性を閉じられていくこととなります。

 

 子どもであるわたしたちは親の影響にあまりに無防備であり、それゆえ、どんな家庭であってもー虐待のような明らかな問題がない家庭であってもー、そこにはこの傷つきと欠落が生じてしまう*2。この村上春樹のフレーズには、そういった何とも運命的な苦しさや哀しさが凝縮されているように感じられました。

 

 半ば運命づけられたとも言える、この閉じられたサーキットの中で傷つき損なわれたわたしたちは一体どうすればいいのでしょうか。親は絶対的、圧倒的な力をもつ者であり自分はその影響から永遠に逃れられないとみなすと希望は失われてしまうかもしれません。反対に、親の影響や自分の傷つきをないものとすると今度は逃げ場を失ってしまうかもしれません。

 

 

 村上春樹の小説にはよく井戸が出てきますが、彼は心理学者である河合隼雄との対談「村上春樹、河合隼雄に会いに行く」の中で「井戸掘り」について語っています。そこでは「井戸掘り」が何かということはハッキリと書かれてはいないのですが、どうやらそれは、自身と向き合うこと、自分の欠落を見つめることのメタファーのようです。

 

「結局のところ、自分の欠落を埋めることができるのは自分自身でしかないわけです。他人がやってくれるものではない。そして欠落を埋めるには、その欠落の場所と大きさを、自分できっちりと認識するしかない」

 

 わたしたちが自身の損なわれた部分に気づいてしまったとき、それとともに生きていくには、まさに「井戸掘り」という過程を経ることが必要なのでしょう。井戸の中で、自分を見つめ、その損失の経緯と痛みに向き合う時間が必要になるのだと思います。

 

 村上春樹がいう通り、それは「自分自身」でしか出来ないことではありますが、その過程は時に苦しく、伴走者が必要となることもあります。そして、カウンセリングにいらっしゃる方の中には、潜在的にこういった作業をすることを求めて来談される方が一定数いらっしゃるように感じます。

 

 

*1:この「自我」は「自分」という一般的な意味で使われていると思われます。

*2:虐待家庭における身体的心理的傷はここでの話とは少し違ったものであると考えられます。

 

【参考】
・『考える人』2010年8月号
・『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)河合隼雄、村上春樹

2019年05月27日|ブログのカテゴリー:本・映画・漫画・音楽